オドルアホウ

闘病中の父も、それを支える母も尊敬しています。

はいさーーーい!!

有休消化中の主夫ブロガー、おくそんです。

okuson
しばらく父の闘病記を書くつもりが、事情により闘病記は今回の記事で最後になります。

いつかこの記事が他の誰でもない誰かの助けになればと思い、書くことにしました。

 

この記事を書いている6月8日午前1:25分。

全仏OPで錦織と世界ランク1位のマレーが戦っています。

そして隣の部屋、父が闘病生活を送っていた居間の隣にある6畳の和室で母がいびきをかいています。

 

錦織とマレーの熱戦と母の猛烈ないびきを聞き流しながらブログを書いています。そう言えば私の父と母の出会いもテニスだったとか・・・姉と二人で父と母の出会いの話などを改めて聴いたが、母だけの話では信憑性に欠けるのかもしれない。

父がいたら「違うよ、あれはこうで・・・」

とかいう話になったかもしれないが、まぁそれはそれで想像するだけにしておこう。

 

【58歳、父の他界】

前回の記事【在宅医療】という選択によって得られた幸せ にも書きましたが、私の父は舌ガン⇒リンパへの転移により自宅での療養生活を送っていました。

まぁ「いました」という書き方でもわかる通り、6月7日の午前3時に私の父は他界しました。

私の両親は仏教信者では無いので、「他界」という表現が正しいのかどうかはわかりませんが、そういうことです。

 

母が抱えていたもの

恐らく母以外誰も知らなかった事なのですが、父の死後母から担当医師による「説明記録」の存在を知ることになりました。そこにはこんなことが書かれていました。

 

・頸動脈の出血による急変の可能性が最も考えられる。

・化学療法の効果が無かった場合は、現状であれば予後は3か月~6か月

・重複照射を行っているため感染が生じれば(化学療法が功を奏したとしても)一か月などの短期間で頸動脈からの出血が生じる可能性があります。

・大血管からの出血が生じた場合は救命の方法はありません。

 

 

まぁ問題があるとすれば、母の覚悟を守るため「いつ」だったかは書きませんが私が地元に帰るのを決意するより前の事だったのです。

しかもこの説明記録を父を含め誰にも伝えず、母ひとりで抱えていたということです。

私自身今年の五月に地元に帰り、実家で何日か過ごしていましたが、いつ容体が急変するかわからない父と一つ屋根の下で生活するというプレッシャーを身に染みて感じることになりました。

もちろんプレッシャーだけでなく、家にいるからこそ出来るケアや幸せももちろんあります。

 

ですがここ数年の父、母のことを考えるとやはり考えさせられるというか・・・ただただ二人の強さを痛感することしか出来ていない私がいます。

 

もしかしたらこの説明記録をもらった日から、母が安眠した日は無かったんじゃないでしょうか??

 

あ。

ちなみに母は父より年上で60歳の天然ちゃんです。

 

父がいなくなってから

ある意味ベストなタイミングだったのか、私は沖縄から地元に戻り6月末まで有休消化という状況だったので、地元に戻った5月8日からある程度自由が利く状態でした。

そして父が亡くなる数日前から実家に寝泊まりし、母や姉と協力しながら父を診ることができたのが救いでした。

そして父が亡くなり、私の今現在の心境としてはなんだかすごくフワフワしています。

というのも、私の場合は覚悟をする期間が長かったというか・・・父に関しては大腸がんをやって、その後に舌やリンパだったのでなんとなく「そういうことが起きる」予感は10年近くずっとありました。

でも実際に起きたら「そうだよね」みたいな訳にはいかないよね。

そして父は在宅で療養をしていたので、父の希望通り自宅で亡くなり私達家族はそれを見守りました。そして亡くなってから葬儀の担当者がやってくるまで父も家にいたのですが、なんでしょう・・・

「魂と肉体」とか宗教観っぽい話では無いのですが、息を引き取ってすぐに私が感じたのが、そこにいるのが間違いなく父なのですが父ではないような感覚が私にはありました。

何かうまくは言えませんが、やはり「人」は内面的な何か、例えば性格や話し方・声などによって他人に認識されていて見た目である外側はあくまで視覚的なものでしかないのか??だから亡くなったら今までの全てが消えるわけでは無いけれど、なんとなく違う人にかんじてしまうのか??とか。

そんなこと考えているからフワフワしているんでしょうね(*_*;

 

でも突然亡くなられたりする場合に比べたら、自分の気持ちを伝えることも出来たし息子たち(父からしたら孫)と過ごす時間も作れた。一番上の子が4歳なので、今起きている事をどれだけ理解しているかはわからないが私としては「孫を見せれた」ことと「一緒に遊べた」ことは大きい。

 

 

そして父は、私に「宿題」を多々残していきました。

今後はまぁ私自身の生活と、父の気持ちを受け止めながら今後の人生を楽しむことにします!

 

そしてなんと・・・この記事が記念すべき100記事目となるのでした。

 

okuson
最後に・・・父に関する記事は、今後も少し続けることにします。