はいさーーーい!!

有休消化中の主夫ブロガー、おくそんです。

okuson
昨日の記事は途中になってしまい申し訳ないです・・・後日必ずリライトします!

そして本日以降の記事はしばらく父の闘病記がメインになりそうです。

 

私の父は【癌】と戦っている

まぁ過去記事にも書いてはいますが、私は少しでも闘病中の父の助けになるべく沖縄での安定生活から飛び出し、生まれ故郷の千葉県へと移りました。

 

そもそも私の父親は私が中学1年生の頃に「大腸がん」その後期間は空きましたが「舌がん」「リンパ」と色々なところに転移し、放射線も抗がん剤も経験し、今現在在宅で闘病生活を続けています。

2017年6月現在、58歳。

なんだかんだまだ若いよね。

 

息子として抱いた危機感

中学生のころ、父が癌だと聴いてそごくフワフワ?していたのが記憶に残っている。

中学生独特の思春期に「癌」という強烈なキーワードが重なってなんか現実のような、そうでないような・・・「なんかよくわからん!」という状態のまま手術日に姉と二人で地元の臼井駅から稲毛駅まで電車に乗って病院に向かったことを今でもなんとなく覚えています。

最初の「大腸がん」に関しては、会社の健康診断によって見つかったのですが割と早期発見だったため、「大腸の一部切除」で取りきれると聴いていたのでなんとな~~く「大丈夫」な気がしていました。

もしくは「いや、中学生で親父がいなくなるとか考えられん」という気持ちもあったんだろうな・・・と今では思います。

まぁ無事に手術も終わり、板に張り付けられた腫瘍を見て、無事に息をしている父を見てなんだかんだめっちゃ安心したよね。

手術する前に「何かあったら任せたぞ」といった父の言葉は今でも覚えています。

一応長男だしね。

「舌がん」という恐怖

中学時代の大腸がんも落ち着き、しばらくおだやかな日々が続きました。父は検診の度気が気じゃなかっただろうが・・・。

まぁ私も高校⇒成人と人並みに大人になり、恋愛もして(いらない?)なんだかんだあって実家を出て大学生の彼女の家に転がり込み、気付いたら沖縄で生活をしていました。

沖縄で生活すること2年、実家から連絡があり「舌にがんが出来たみたい」と方向を受けました。

「え!!?また!?まじかよ・・・」

みたいな気持ちでしたが、中学生の頃と状況が違いました。あの頃私は携帯を持っていなかったし、そこまでインターネットを頻繁に使用することもありませんでしたが、舌がんと聴いた頃の私にはPCもスマホもある。

 

まぁうっかりググってしまうわけですよ。

 

そうするとこんな情報が簡単に出てきます。※以下「メディカルノート」参照

重症の舌の症状-早期の舌がんでも首に転移することがある

舌がんが進行すると、病変は潰瘍になり、持続性の痛みや出血、強い口臭といった症状が現れます。

また、早期の舌がんでも、首のリンパ節にがんが転移してしまい、急激に進行するものもあります。これは先にも触れたように、舌が筋肉の塊であり、血液とリンパの流れがよい部分だからです。つまり、良好な血流やリンパの流れにのり、がんが頸部へと飛びやすい環境であるということです。たとえば「扁桃腺炎」で、首のリンパ節が腫れたという経験をしたことのある方も多いでしょう。

このように口の周囲はリンパ流が発達しているため、ステージ1やステージ2といった早期がんでも、1年以内に頸部にポッコリとした腫れが生じる方が3割ほどみられます。早期の舌がんは、比較的転移しやすいがんといえるでしょう。

早期の舌がんの手術治療は30分~40分ほどで終わる簡単なものですが、転移してしまった場合は2度目の手術が必要

 

・・・・

そんでもって今度はリンパ節に転移した場合を調べますよね。そうするとどんどん不安になってくるわけですよ。ネットの情報を全て鵜呑みにするわけではありませんが、そんなことありますよね??

 

まぁ結果的にリンパにも転移いたしまして。

舌がんで手術もしているので、放射線治療をメインに行いましたがあまり良い結果にはならず、抗がん剤治療を始めました。

当時私は沖縄に住んでいたので、実家に帰れるのは頑張って半年に一回程度。色々と不安も募ります。

そもそも抗がん剤というのは「がんを治すもの」ではないので、激しい副作用と戦いながらがんと生きるような日々が続きました。やはり副作用は激しかったですが、がんの進行を抑えてくれてはいたのですが、それも長く続くことはありませんでした。

「入院は嫌」という父の意思を尊重し、在宅での看護生活が始まりました。

この時私は「地元に帰る」という意志を固めました。そして、母と父の看護生活が始まるのです。(週一度往診があります)

 

そして2017年6月

母から連絡が入りました。

昨日のブログを書いている途中の出来事ですね(笑

「看護師さんから、呼吸が弱いのでご家族に連絡を・・・」という内容でした。その後すぐに子供の着替えやら何やら準備をし、TSUTAYAに当日までのDVDを返却し「なんで昨日のうちに返さなかったんだろう」とか思いながら高速を走りました。

無事実家に到着し、母と姉と看護師さんに今の状況など説明をうけました。

まぁ簡単に言えば危ない状況にあるという事です。

万が一苦しくなった時用の薬をセットしてもらい、使用するかどうかは家族と本人に確認しながら使用しよう!と母と姉と一致団結し夜を迎えました。

AM3時頃、一階にいた母から呼ばれ「何事か!!」と飛び起き父のいる一階に駆け降りると、はっきりとした言葉では無いですが力強い声で会話をしている父と姉がいました。

その後AM7時位まで家族の談笑は続き、「あの時は・・・」とか「なんであれは・・・」みたいなしばらくぶりの家族団らんがそこにはありました。

 

そして今、とりあえず山場を乗り越えた父の横でキーボードを叩いています。

沖縄にいる間、なんだかんだ父と私はブログを通じて結構やり取りをしていました。ブログだと自分自身の様子とか考え方とか表現しやすいので、父もそれが見ていて楽しかったみたいです。

もっと早くからブログやっとけば良かったなぁ・・・とか思いましたが、今朝の家族団らんは「在宅医療」を選んだ父とそれを承諾した母の計り知れない苦労があってたどり着いた事だと改めて感じました。

母は母で安眠できる日はほとんどなかったことでしょう。

私も私で、戻ってきてよかったと本気で思いました。

 

さぁ、今日も闘います。

 

 

 

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